1-1 名前:vellfire日時: 2012/09/25 23:59 修正1回 No. 1 |
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私には大好きな場所がある。それは、学校の校庭だ。日曜日にもかかわらず、今日もまたここにやってきていた。 校庭にはたくさんの色がある。 太陽が黄色い光を地面に届けていて、小さな砂がきらきらしている。 校庭をぐるっと囲むように植えられた桜は、あざやかな花びらをつけて、風に吹かれてゆらゆらとゆれている。 風はときどき強く吹いて、砂ぼこりが舞う。ちょっと迷惑なんだけど、なんだか喜んでダンスしているようにも見えるから、困る。 シーソーとかのぼり棒とか、遊具にもカラフルな色が塗られている。少し古くなって色あせているのも好きだった。 そんな校庭で、私はいつも絵を描いていた。
片隅に咲いている小さな花を描いたり、ウォークトップの塗装に寝そべって空を描いてみたり。 田植えの時期には、水の張られた田んぼと、そこにたたずむフラミンゴみたいな鳥を描いたり。 校庭も校庭から見た景色にも描きたいものがたくさんありすぎて、困る。 季節が変われば様子が変わって、それは希望に満ちあふれてるみたいで、ワクワクして、描いても描いてもあきたりしないのだ。 だからだったんだと思う。この大好きな場所に似合わない色をしている男の子の姿が、目に付いたのは。
今日も校庭では、野球が行われていた。毎週、少年野球チームの少年たちが練習をしていたり、試合をしていたりする。 私の小学校ではクラブみたいなのはその少年野球チームしかないから、同級生の男の子たちのほとんどが所属していた。 正直、野球のルールなんて何も分からないんだけど、男の子たちが頑張っている姿はなんだかカッコ良いな、と思う。
2つのユニフォームの少年野球チームが、試合をしていた。 6年生の卒業式はもう終わったあとなんだけど、それでも同級生の子がいるから卒業生の壮行試合なんだろうか。 どちらもお互いのチームに「がんばれー!」とか「ヘタクソ!」とか声をかけあって、和やかな雰囲気だった。 多分、同じ地区同士の小学校だから、それぞれの選手のこともよく知っているんだろう。 みんながみんな、とても晴れやかでキラキラと輝いた目をしている。こんな雰囲気なのも良いな、と思った。 絵になりそう、そう思った。
だから、やっぱりそんな雰囲気の中で、その男の子が格段に目立っていた。
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1-2 名前:vellfire日時: 2012/09/26 00:19 修正2回 No. 2 |
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- 身長は私の129センチと同じぐらい。
少しぶかぶかのユニフォームはとても真っ白で綺麗だ。うつむいていて、試合なんて見てもいないみたい。 さっき攻撃と守備が変わったけど、動いてないから試合に出ていないのだろうか。 それに同級生であんな感じの子はいなかったから、きっと下級生なんだと思う。
「顔、あげたら?」 思わず、声をかけてしまった。今日みたいな門出の日に暗い表情なんて似合わないら。 その男の子はぴくりと反応したけど、地面をみつめたままだった。 額から汗が流れていた。 本当ならスポーツをしている男の子の汗って、カッコいいと思うんだけど、この子からはそうは感じなかった。 「もっと楽しそうにしたら、いいと思うよ」 少年はふるふると首を横に振った。 「いやだ」 今にも泣き出しそうな、消え入りそうな声で、その男の子は答えた。 「どうして?」 「楽しくなんか、ないから」 どうして、とまた聞いた。 「だって、僕は」と言いかけた彼は、言葉の後ろを切ってしまい、後に続く言葉を出さなかった。 「君は」 その子は、顔の高さをそのままにこちらを見た。 「君が、噂の、幸運の絵描きさん?」
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1-3 名前:vellfire日時: 2012/09/26 00:21 修正2回 No. 3 |
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- 幸運の絵描きと言うのは、この学校で私が呼ばれているあだ名だった。
あるとき、仲の良い友達に絵を描いて欲しいとお願いされたことがあった。 ふたつ返事で「良いよー」と返事をしたら、同じクラスの男の子を描いて欲しいってお願いで、びっくりしたことを今も覚えている。 私は精一杯、気持ちをこめて描いた。 友達が言うには、その男の子は走っている姿がとてもカッコいいらしく、一番でゴールするところが良いらしかった。 とてもその子は喜んでくれた。 そして、マラソン大会の日、なんとその男の子が一番になった! 友達がとても誇らしげにしていて、あまりにも嬉しかったのか、ポロっと私が描いた絵の話をしてしまったのだ。 それから、色んな人に描いて欲しいと言われ、なんだか分からないうちにその通りになって。 ついたあだ名が、幸運の絵描き。 大好きな絵も褒めてもらえるし、すっごい嬉しいんだけど、顔から火が出るくらい恥ずかしい。 今では少しぐらいはそう呼ばれるのも慣れたんだけど、いつしかそんなお願いも聞かなくなった。 だけど、全校に広まっていると思っていたのは、思い込みだったのだろうか。 それとも改めて聞いてくるってことはなんだろう。
「そうだけど、何?」 「そのスケッチブックに、よかったら」 「よかったら、何?」 「僕を、描いて欲しい。キャッチャーを相手に思いっきり、投げているところを」
突然の申し出に、とまどった。 絵を描いて欲しいと頼まれるのは、もちろん嫌いじゃない。 だけどあまりに対象とかけ離れたものを描くのは、好きじゃない。 きっとこの男の子にも、叶えたい、そうなって欲しいことがあるんだろう。それは、分かる。 だけど私が描いたからってそうなるとは限らない。でも、断わってしまうのも、悪いと思った。
「ヤダ。今の君は、私が描いたからって、そうなるとは思えないんだよね。 自分で努力しなきゃ、なりたいものになんかなれないよ。だから、私に描いてもらえるぐらいのカッコいい男の子になってよ。 今の君は、なんだか何かから逃げてるようにしかみえないから。せめて、努力して。そのときは、絶対に描いてあげるから」
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1-4 名前:vellfire日時: 2012/09/26 00:35 No. 4 |
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私はその子に、ニコッと笑いかけてあげた。 彼は私を見て、今まで閉じ気味だったその瞳を少し開いた。ちょっとだけ輝きを取り戻したように感じた。 良かった、何か、届いたのかもしれない。
「あ、あの、最後に、君の名前を」 「しずく。横井雫(よこいしずく)。覚えておいて、いつか私が君の絵を描くときまで。じゃ、頑張ってね」
私は、その子に声をかけて、その場を後にした。 私の小学校6年、最後の3月。 汗色の少年と、幸運の絵描き少女。 彼と再会する日はいつかくるのだろうか、と思った。
ジリジリと、鳥が鳴いていた。鳴き声がだんだん遠くなっていく。ジリジリ?
そこで、目が覚めた。 見慣れた天井、蹴り飛ばされたふとん、鳥のキャラクターの目覚まし時計、見慣れた私の部屋だ。 どうして、高校生にもなって、小学生のときの夢なんて見たんだろう。 ベッドから降りて、窓を開けてみる。 まぶしい日ざしと、風が入ってきて、部屋を一周すると、ふっとにおいを運んできた。 ああ、そうか。 部屋の端におかれた油絵の道具を見て、思った。これは、きっと心が話してるんだ。
私は、今、絵を辞めようか――迷っている。
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2-1 名前:vellfire日時: 2012/09/28 23:05 修正3回 No. 5 |
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高校2年生になってから、朝はムッとすることが多くなった。それにはいくつか理由がある。 窓を閉めて、部屋から出て、右手の階段に向かった。
階段をおりると、お母さんがキッチンであわただしくしていた。 我が家の階段はリビングと繋がっているから、例えば家から帰ったとき、いちいちリビングを通らないと自分の部屋には入れない。 以前、両親に「どうしてリビングに階段つけたの?」と聞いたら「そういうことだ」って言われてモヤモヤした。もちろん、継続中。 「おはよ」 声をかけたけれど、聞こえてないみたいだ。なるべく静かにキッチンの横を通って、洗面に入る。 今日もまた洗面争奪戦に負けてしまった、と思って肩を落とした。すでにお父さんが使っている。 「ちょっとどいてよ」 「おふぁよ」 振り向いてお父さんが言った。 「ちょっと。やめてよ」 歯を磨きながらしゃべったら飛んでくるでしょ、と文句を言ってやる。 「先に朝食にしなさい」 「朝起きたら、まず、うがいをしたいの!」 どうして、とお父さんが聞いてきたけれど、テレビでそうすると美容に効くと言ってたから、なんて答えてやらないのだ。 そこからしばらくどいて、待ってを繰り返した。お父さんの後って気分的に嫌だから、先を越されると沈んでしまう。 じゃあもっと早く起きればいいんだけど、これ以上は無理だ。だから言えたものではない、きっと。
仕方がないので洗面を出て、リビングに向かった。変わらず、お母さんが忙しそうにしている。 「うがいしたいからコップとって良い?」 食器棚のすぐ近くまで行ったところで、ようやくお母さんが私に気づいたみたいだった。 「ちょっとぼんやりしてないで、どいてどいて」 フライパンをもったまま私の方に向かってきたので慌ててどく。 お母さんは慣れた手つきでスクランブルエッグの半分をお皿に移した。 お皿運んどいてね、気が利かないんだから、と言ってキッチン台に向かうと今度はお弁当箱に盛り付けていく。 別にあとのこと言わなくていいじゃん、って思ったけれど、これも料理の手伝いをほとんどしない私が言えたものではない。 お母さんの邪魔にならないように食器棚からコップを取って、蛇口から水を注いでいると、階段の方から足音が聞こえた。
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2-2 名前:vellfire日時: 2012/09/29 23:07 No. 6 |
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「はよ」 口に手を当てながら、誠二(せいじ)が言った。こいつは、私の1つ下の弟だ。 長めの髪には外はねのパーマがかかっていて、部屋の明かりに照らされてほんのり茶色い。 誠二はけだるそうに頭をかきながら、私の横を通り過ぎて、冷蔵庫に手を掛けた。 私とは違って、背が高い。視線を逸らして食卓についた。 「そうだ。姉ちゃん」 軽く無視して、スクランブルエッグをごはんに乗せる。我が家はごはん派なのだ。 食べるのにちょっと時間が必要だしパンでいいのに、って思う。ちょっと重いと言うか硬いんじゃないだろうか。気分にも、胃にも。 「姉ちゃん姉ちゃん姉ちゃん姉ちゃん姉ちゃん姉ちゃん」 「うざい!」 ちょっとむせてしまったじゃないか。おまけに卵もひとかけら落としちゃったし。 「だって、返事しねえし」 椅子に座る私よりはるかに高い位置から見下ろすようにして誠二は言った。 「なんでアンタに丁寧に返事しなきゃならないのよ」 弟を見上げるなんて姉として情けない。 「ふーん。ま、いいや」 全く気にしない様子で、誠二は私の正面に腰かけた。 「で、何よ」 「朝から窓あけるのやめてくれ」 何言ってるんだろう、と思った。ごはんを口に運ぶ箸が止まった。口を中途半端にあけて間抜けに見えるかもしれない。 「姉ちゃん、聞いてるのかよ」 誠二は、私と同じようにごはんにスクランブルエッグをかけているけれど、その上にさらにしょうゆをかけた。 兄弟だなって思うけれど、やっぱり違う。 「姉ちゃんの部屋、確実に臭いって。 俺、部屋の窓あけてんだけど、姉ちゃんもあけるとにおいが回ってくるって言ってるだろ。 だから、あけないでくれよ」
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2-3 名前:vellfire日時: 2012/09/29 23:09 修正3回 No. 7 |
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朝からムッとする大きな理由が、これだ。最近の誠二は生意気で、いつも文句を言ってくる。 だいたい、女の子に向かって部屋が臭いなんてよく言えたもんだ。 誠二は、のどへかきこむようにごはんを食べている。 「アンタに言われる筋合いはありません」 そもそも私だって部屋のにおいには気づいているのだ。 私は油絵をやっている。早い話、油絵の道具は独特のにおいがするのだ。 「姉ちゃんの部屋の前通るとき息止めてんだぜ。最近何も描いてないんだろ? あれ何とかしてくれよ」 「雫はこれからコンクールがあるから、題材を考えてる最中なのよ」 いつの間にか家事を終えていたお母さんがフォローを入れてくれた。 けれど私は申し訳ない気持ちになってしまった。 私がお母さんに言ったことそのままだったから。そしてそれは、嘘だ。 残りのごはんを一気に口に運んで私は席を立って、洗面台に向かった。 ちょうどお父さんは身支度を終えたところらしかった。 「おまたせ」 そう言うお父さんには目も向けず、蛇口をひねって、手に溜めた水に顔をひたした。 部屋のにおいに違和感を覚えるようになったのはいつからだっただろう。 小学生から持ち歩いていたスケッチブックは、中学生になってキャンバスに変わった。 さすがにキャンバスを持ち歩くわけにはいかないからって、両親に泣いてねだったことを今も覚えている。 自分の部屋にキャンバスと油絵の道具があるなんて、誇らしい気持ちになった。 高校生の今、それをうとましく思ってしまっているなんて、言い出せない。
部屋に戻って、キャンバスには目もくれずに制服に着替えた。 鞄をもって階段をかけおりる。 はしたないわよ! と言うお母さんに、行ってきますとドア越しに叫んで、家を飛び出した。 最後に見た時計は7時過ぎ。 学校に行くにはまだまだ早いのだけれど、今の私にとっては何の問題もない。 私はいつも学校まで続く1本道の通学路を歩いて通う。 他のみんなは、大抵が自転車で通っていて、私も自転車で行けばいいのだけれど、それじゃ楽しみの一つが減る。 季節によって色んな姿を見せてくれるこの道は、朝の嫌な気持ちを消し去ってくれるのだ。 ゆっくり歩いていこうと思う。
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2-4 名前:vellfire日時: 2012/09/30 22:03 修正1回 No. 8 |
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春は、春告げ鳥と呼ばれるウグイスと、桜だ。 両側に植えられた桜が、ほのかな香りを届けてくれる。 どこからともなくウグイスの鳴き声がして、またこの季節が来たんだな、と実感する。 夏は、雨と日差しとセミの鳴き声が暑さを際立てる。 桜の花が散って、雨の時期はアジサイ。その後には緑がうっそうと茂ってくる。 朝からずっと聞こえるセミの鳴き声は、やっぱりこの季節が来たんだな、と思わさせられてしまうのだ。 秋になれば、食欲、ではなくって、辺りは一気に冬の準備へ。 赤トンボが舞って、コスモスが健気に咲く。イチョウに代表されるように赤や黄色がこの季節の色だ。 冬は白い。ゆらゆらと雪のダンスが行われて、景色は白いヴェールをその身にまとうのだ。 晩冬に、梅の香りがして来たら、春はもうすぐそこまで来ているんだ、と思って心が躍る。
高校生になって1年間この道を通って、私はこの道に夢中になった。 朝早く出て、誰もいない道を眺めてゆっくりに歩く。 それはもう、日課と言ってもいいぐらいだった。
この道を歩いた先には、私の通う渚東(なぎさひがし)高校がある。とりたてて特徴のない、普通の高校だ。 校門を抜けて、グラウンドを横目に玄関へ向かう。 グラウンドでは野球部が朝練を行っていて、朝から威勢の良すぎる声が響いていた。 朝から土と汗にまみれて、という光景を見ていると、男子ってすごいな、と思う。 ぞろぞろとバットを持つ人が出てきたのを見て、私は足を速めた。
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2-5 名前:vellfire日時: 2012/09/30 22:06 修正2回 No. 9 |
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下駄箱で上履きに履き替えて、その足で職員室に向かった。ドアを開けて、失礼します、と軽く会釈する。 「おはよう、横井さん。今朝も美術室の鍵かい?」 職員室に入ると、おっとりした雰囲気の先生に声をかけられた。 美術部顧問の矢沢先生だ。薄くなったてっぺんとま白い横の髪。大きな鼻もあいまって、あだなは『お茶の水博士』だ。 「おはようございます、矢沢先生。はい、お願いします」 「次のコンクールに向けて頑張っているようだね」 「あ、いや、私なんて、そんな」 矢沢先生は、うんうん感心だなあ、と言って、鍵掛けの美術室と札があるところに手を持っていった。 「はい、また授業が始まる前には届けてね」 鍵を渡してもらって、ありがとうございます、と言って、駆け足で職員室を出た。 私のついた嘘は身近な人に広まって、私自身を突き刺してくる。 それでも、そうする理由はあるんだ、と自分に言い聞かせている。
油絵をやっている私は、当然、美術部に所属している。 階段を一番上まで登って、美術室へ向かった。4階程度で足はガクガクだ。 美術室に入ると、そこは分厚いカーテンが閉められていて、薄暗い。 油絵の油のにおいが染み付いているのか、ツンと鼻を突かれる。 食用油とは違う、独特のにおい。 普通の人なら、うっと来るかもしれないけれど、私はこのにおいが好きだった。すでに過去形だ。 カーテンを開けると、室内がぱあっと明るくなった。急に明るくなったから、少し目がくらむ。 窓を開けると、潮の香りを含んだ風がすさんだ。大きく深呼吸する。やっぱり、春の風は心地が良い。
窓の下からは、さっき横切ったグラウンドがちょうどよく見える。 ここで、野球部の練習風景を眺めるのだ。 野球部はいつもこの時間から、部員が自由に打つ練習を始める。私を一番癒やしてくれるのはこれなのだ。
だから、ごめんなさい。矢沢先生。本当は美術部も、絵もやめたいんです。 なんて絶対言えるわけないじゃん、と思いながら、椅子を窓際によせて、外を見下ろした。
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2-6 名前:vellfire日時: 2012/09/30 22:10 No. 10 |
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野球部の部員の中でも大柄な人が、準備を終えて、ゲージの中に入っていった。 思わず、手を顔に当てる。手の平に顔の暖かさが伝わってくる。 あの人の番だ! 今から打つ人は、緑川勇気(みどりかわゆうき)。 渚東高校野球部3年生で、野球部のキャプテンをしていて、大きな体と爽やかな笑顔がキュートな先輩だ。 話したことはない。 野球部で飛び抜けて人気で、誰でも知っているほどの有名人で、噂では、ファンクラブまであるらしい。 内気な私は、先輩の目の届く所はおろか、ファンクラブにさえ入る勇気はない。そもそも、私なんかが、と思うわけで。 だから、ここから見ているだけでいい。
先輩はキャッチャーと言うポジションをやっているらしい。 普段は、お面をして、ピッチャーと言う人のボールを受けていて、顔が見えない。 この練習が始まるときが、1番のチャンスなのだ。 野球部の練習は、朝練と午後があって、つまり2回見られる機会がある。 でも、午後だと美術室には他の部員がいるし、みんな帰った後だと、都合よく先輩を見られるとは限らないのが辛い。 やっぱり、朝のこの時間が、私にとって格別に幸せなひとときなのだ。 そうやって眺めているうちに、始業5分前のチャイムが鳴った。 野球部は早々と朝の練習を終えていた。慌てて窓を閉め、カーテンを閉じた。 美術室の鍵をしめて、そっと思う。
――また放課後、見られますように。
高校2年。 私は、きっと、恋をしている。
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3-1 名前:vellfire日時: 2012/10/04 22:59 修正3回 No. 11 |
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先生が授業で問題を出したとき、当てないでってときにかぎって指名されてしまう。 そろそろ宿題を忘れてしまうかも、って思ったら本当に忘れてしまう。 悪い予想ばっかり当たってしまうように感じるのが、現実ってものなんだろうか。 そんなの信じたくない。 放課後のことだ。 やっちゃった! と思った瞬間にはもう遅くて、案の定、美術室の扉が開いてしまった。 「入部してから1年間見てきたけれど、あなたはそそっかしいじゃ済まないわね。 気をつけなさい、っていつも言ってるでしょう」 開いた扉の先から現れたのは永井先輩だった。美術部の部長だ。 この惨劇を見た瞬間に、お約束と言わんばかりに、私をたしなめた。 情けない気持ちで、私は胸が一杯になってしまった。 美術室の中、永井先輩と私の立つ間の床には、パレットとか油絵に使う道具が散らばっていた。 「さあ、ぼうっとしてないで、片付けなさい」 永井先輩は私にそう言うと、私を通り過ぎて、においがこもるから、と言って、窓を開けた。 充満しかけていた油のにおいを潮風がすっと包み込んでいった。 私は、と言えば、永井先輩の一挙手一投足をただ見つめているのだった。 永井清美(ながいきよみ)先輩は、とても美人だ。 クールビューティー。 ショートの黒髪は窓からの光をあびて、先輩の顔をきゅっと映えさせている。 背も高くて、切れ長の眼が、とても知的に見える。 風に吹かれてなびく黒髪を見ていたら、シャンプーのコマーシャルに出ていそうだな、って思った。 永井先輩みたいになりたくて、憧れる。 残念なことに、私は歳月が見事なドジっ娘に育ててくれたらしい。 でも、はっきり言って自覚はない。
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3-2 名前:vellfire日時: 2012/10/08 00:15 修正3回 No. 12 |
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「そう言えば、構想は進んでるの?」 永井先輩は窓からこちらに向きなおして言った。 その問いかけに、私は肩をびくつかせた。背中が冷たい。嫌な汗が吹き出た気がする。 痛いところを突かれた、と思った。 私は、正確には美術部員の面々は、夏に開かれる絵画コンクールの作品を描こうとしている。 「あの、か、考え中です」 しどろもどろしながらの答えに、永井先輩は、眉をひそめた。 「本当に大丈夫なの?」 永井先輩はとても聡明だ。成績はトップクラスだと聞いたことがある。 私の作品が全然進んでいないことに、気づいているんだろう。 だから、部長として心配して、私に声をかけてくれているんだと思う。 「しっかりしないと間に合わないわよ。時間はあるようでないんだから」 永井先輩の作品へのこだわりはすごい。 勉強もして、美術部の部長もして、良い作品も作っている。私なんか、全然かなわない。 そんな永井先輩を、みんなは信頼している。 でも私にとっては、厳しい。 今回のコンクールのテーマは『夏』だ。作品の締め切りもずばり夏だから、まだまだ時間はある。 今はアイデアを練る段階なのだけれど、正直あせっている。 でも、何とかしなければと思えば思うほどに迷路に迷い込んでしまう気がする。 他の部員の人たちは、アイデアに困っている様子なんてちっともない。 もう下書きとかデッサンに入っていたりする子もいる。 自分だけ置いていかれてるように感じて、あせればあせるほどダメだとは分かってる。 分かっているけれど、それでも無理矢理しぼり出そうとして。 キャンバスに向かえば何とかなると思っていたのだけれど、その見積もりは甘かったらしい。 これが甘いものだったら、カロリーから値段と分量の計算までばっちりなのに! 絵を描くのが辛いなんて、いつから思うようになったんだろう。 構想段階から進まないなんて、なかったはずなのに。
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3-3 名前:vellfire日時: 2012/10/08 17:23 修正1回 No. 13 |
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窓の外からは「バッチ来い!」とか「ナイスピッチ!」とか元気な声が聞こえていた。 連日、グラウンドでは渚東高校野球部の厳しい練習が行われているらしい。 私には絶対無理だな、と思いながら、床に落ちたパレットを手に取った。 描きたいものが全くないのか、と問われれば、ないわけではない。 ――それは、パレットを落としてしまった理由でもある。 煮詰まったから気分転換、と自分に都合の良い理由をつけて。 そして私はここから見える校庭で練習をする野球部をちらちら眺め出すんだ。 視線の先には、緑川先輩がいる。 誰かに何かを疑われたら「やっぱり夏といえば、スポーツですよね」と答えも用意している。 ――そんな言い訳は通じないと分かっているのだけれど。
私は、緑川先輩をキャンバスに描いてみたい。 でも、そんなの作品にはなりえない。浮ついた気持ちを作品になんてしちゃいけないんだ。
「イメージは浮かんできてはいます」 苦し紛れだけど、そう答えるより他はなかった。 「それだけじゃ、作品は完成しないのよ」 永井先輩の言葉が、私の心をえぐるように届く。やっぱりダメだ、私。 「キャンバス、真っ白じゃないの」 永井先輩は私の後ろに回りこんできて、言った。 「はい。えっと、真っ白なのは、テストだけでいいんですけど」 シーンとした。笑えない。笑えなさすぎて、泣けてきそうだった。 永井先輩はすごいけれど、私はそんな風にはなれない。 やっぱり私は、絵も、美術部もやめたい。
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3-4 名前:vellfire日時: 2012/10/14 22:55 No. 14 |
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描きたいものがあるなら、それを好きに描けばいいと思う。 それが絵を描くってことだと思ってた。 だけど、今、そうはできない。それにはいくつか理由がある。 過去には絵を褒めてもらって、それが嬉しくって、何も考えずに描けていた。 高校生になって美術部に入って、永井先輩のすごさに憧れた。 それにかなうはずもないって気づいたのは、やっと描きあげた作品が最初のコンクールで箸にも棒にもかからなかったから。 好きなものを好きに描くだけじゃダメなのよ、って永井先輩に教えられた。 永井先輩に教えられているうちに、先輩の厳しさにはついていけないと思うようになった。 私には、永井先輩に褒めてもらえるような作品を描く才能が、ない。
そのころから、絵が手につかなくて、外が気になるようになった。 野球部の人たちが、なぜあんなに野球に打ち込めるんだろう、そう思ったとき、緑川先輩を見つけたんだ。 きらきらとしたその姿がまぶしくて、眼から離れなくなった。 絵を描くとき、『その内面まで描きたい』と思ってきた。 でも緑川先輩を描きたいと思ったとして、私は緑川先輩に近づくことすら難しい。 描きたいものすら、描くことができない。 そう思ったときに、私は絵を描く資格をなくしてしまったんだろう。 でも、美術部をやめたいのに、やめられない。 私には、緑川先輩を見られる場所があるって言うささいな幸せを捨ててしまう勇気がないのだ。
「ちょっと横井さん、聞いてるの!?」 急に怒りに満ちた声が聞こえて、「ひゃい」と情けない返事をしてしまった。 永井先輩が、ため息をつく。 「すみません」 「謝って欲しいわけじゃないわ」 その声にまたすみませんと言ってしまった。 「もういいわ。やる気がないなら今日は帰りなさい」 あきれたように頭を振って、永井先輩は自分のキャンバスに向かった。 空気が、とても悪かった。窓から入ってくる風が、油のにおいを運んでくる。 うっ、となってしまって、失礼しますと頭を下げて、美術室から逃げ出した。
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4-1 名前:vellfire日時: 2012/10/16 22:14 No. 15 |
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渚東高校は、制服が可愛い。それは私がこの高校を選んだ理由のひとつでもある。 中学生のとき、私には行けそうな高校がいくつかあった。 学力の優れたところは1個もなかったのが、口惜しいけれど。 どこを選ぶかと言う問いに答えを出すひとつのポイントがこれだったと言うことだ。 やっぱり可愛いものには目を奪われて、自分が手にしたときは誇らしいものだから。 渚東高校の制服は、かわいい。ただ、ひとつだけをのぞいて。
息を切らせながら、私は下駄箱で学校指定の靴に履き替えた。 足元を見て、深くため息を吐いてしまう。 どうしてもっと可愛いのにしてくれなかったんだろう。 制服は凄く可愛いのに、1年間履いてよれよれになった黒いこの靴。イマイチ。なんか、納得がいかない。 玄関から出て校門へ向かっているときに、携帯電話が鳴っていることに気付いた。 鞄から取り出して開いてみると、1件のメールを受信していた。
From 上田香奈 Sub いつもの場所で待ってて♪ 今日ゎ部活はやく終わりそう(^^)y☆ 遊ばない? 今日遊びたい気分なの\(*`∧´)/ 香奈ちゃんからの誘いだ! 私は携帯を閉じて、急いで指定の場所へ向かった。 その場所は、校門近く、武道場方向へ少し進んだところにひっそりと、だけど雄大にそびえ立つ1本杉の下だ。 私たちの待ち合わせ場所はここが定番だ。 そろそろ花粉のヤバイ時期にこの場所を指定できるのは、私たちがNOT花粉症グループだからなのだ、えっへん!
この木には噂がある。 ここで告白して成立したカップルは別れることはない、ってどこにでもあるようで、それでいて信じられない伝説だ。 私たちがここで待ち合わせるのにはそれにちなんだ理由がある。 香奈ちゃんが「私たちの友情がずっと続くように」と言い出したのが始まりだった。
まだ来ない香奈ちゃんを待つ間、携帯にイヤホンを付けて、音楽を聴いていた。 流れて来る曲は、どれも私のことを歌っているような、でも、全然違うようで。凄く歌詞に共感できたり、ありえないと思ったり。 私のことをちょっとでもわかっているのかな、と思うと、何だか少し切なくなった。
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4-2 名前:vellfire日時: 2012/10/16 22:20 修正1回 No. 16 |
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- 私たちの心は白いキャンバスです。
若者たちを指して、大人がよく言うこと。 でも、高校生になって1年、私には何色が塗られたのだろう? 杉の木の下で、その横にある桜の木から花びらが待っていくのを見ていた。 沈みかけた夕日の中で、きらきらのピンク色に私の体が溶けていくようだった。 「だーれだ?」 「ひゃん!」 すぐに香奈ちゃんだと分かった。 音楽を聴きながらぼうっとしてたのに、恥ずかしい声が出た原因は、その手の位置だ。 はなはな問題である! と、お堅い言葉を使わなければ、羞恥心で冷静でいられないくらい。 「うーん、この手から少し零れるサイズ。 きっと男子の大きな手だったらすっぽり収まってちょうど良いね! んで、この感触。今日も雫は健康です!」 「止めてよ、恥ずかしい」 「まーまー、堅いこと言わないの。柔らかいだけに」 もう、と私がため息を吐くと、香奈ちゃんは悪びれる様子もなく、ケラケラと笑った。 頬に浮かぶえくぼが、凄く可愛らしい。こうやって、私はいつも負けてしまうのだ。 「んで、何聞いてたの? って、いつものアレ?」 香奈ちゃんは、私の右耳からイヤホンを取って、自分の耳に当てた。 そして、流れて来る曲に合わせて、鼻歌を歌う。これがまた、上手い。 「よーし、じゃあ今日は歌って遊べるとこにいこっか!」 「あれ、部活はいいの?」 香奈ちゃんは、野球部のマネージャーをしている。 野球部の練習が暗くなる前に終わることはないはずだ。いつも見ているから、知ってる。 「うちの部はゴールデンウィークは合宿するでしょ。だから、4月は早く終わる日を作ってるの。ね、いこーよ!」 「いいけど――その格好で?」 香奈ちゃんはえくぼの浮かぶ笑顔が素敵な見るからにスポーツ少女な娘だ。 でも今は、被るタイプのウインドブレーカーに、体操着のジャージ姿。 遊びに行くのに、いくらなんでも女の子として、と言いかけたら、むぎゅっと鼻をつままれた。
誘い方がいつもちょっぴり強引で、気が強いのが見える。 まるで正反対の私と気が合うのは、動物好きっていうギャップがあるからなのかもしれない。 そんな香奈ちゃんの誘いは、私のことが見えてるの、と思うくらいにいつもタイミングが良くて、びっくりする。 大好きな友達だ。
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4-3 名前:vellfire日時: 2012/10/22 21:27 修正2回 No. 17 |
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- 香奈ちゃんは「はやくいこーよ!」と言って、歩き出した。
ずいずい進んで、私と距離が離れていく。はやく、と私を手まねいた。 「はやくはやくー!」 「待ってよお」 駐輪場にさしかかって追いつくと、香奈ちゃんは遅いぞと言って微笑んだ。浮かぶえくぼは嫌味がなくて、とてもかわいい。 そして、そのぷっくりしたいつも唇はよくしゃべり、私をぐいぐい引っ張ってくれるのだ。 「さ、いこ!」 香奈ちゃんは足早に歩き出した。 あれ、普段だったら私と香奈ちゃんはここからだらだらとだべり出すはずだ、と思った。 あったことないこと、はしが転がっても笑うくらいなのに。 「香奈ちゃん、何かあった?」 後姿の香奈ちゃんの肩が上がる。 ふと、メールに使われていた顔文字を思い出した。なんか、怒ってるようじゃなかっただろうか。 振り返った香奈ちゃんは「雫はやっぱりするどいなー」と言って、急にその表情をこわばらせた。 「どうしたの?」 香奈ちゃんは言いにくそうにして、足元に視線を落とした。こつこつとつま先でアスファルトを鳴らす。 「嫌なら言わなくてもいいよ」 そう言うわけじゃないんだけど、と香奈ちゃんは考え込むように腕を組んだ。 しばらくして、よし、と意を決したように顔を上げる。 「ウチ、告白したの」 香奈ちゃんは私を見つめた。びっくりして「えー、嘘!?」と声を出して、足を止めた。 「誰に誰に? いつ? いつ?」 私は一気にまくしたてた。 「落ち着いてよ」 「これが落ち着いていられますか!」 恋の話には、甘いにおいがあると思う。女の子はそのにおいに敏感で蜂のように引きつけられて興味深々なのだ。 黙ってなんかいられない! 「こうなると思ったから渋ったんだよー」 香奈ちゃんは困ったように、ため息をついた。 そう言えばそうだ。恋の話で、もし良い話ならもっと嬉しそうにしていいはずだ。 告白した。私を遊びに誘った。メールの絵文字は怒り顔。とにかく早く遊びに行きたい、とすれば? 「もしかして――」 「振られちゃった」 どうしよう、って思った。テニスコートから、威勢の良いかけ声が聞こえてる。 「そういうわけだから、行こうよ。今日は、振られ記念パーティーってことで」 香奈ちゃんはまた歩き出した。 置いていかれないように走り出そうとしたところで、どん、と誰かにぶつかってしまった。
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4-4 名前:vellfire日時: 2012/10/23 22:14 No. 18 |
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体がはじかれてしまってバランスがくずれた。つんのめるようにして踏ん張る。 「いった」 思わず声が出た。つま先とふくらはぎが痛む。さすろうとかがんだとき、上から声が落ちてきた。 「気をつけろ、ブ」 うわあ! この人絶対『ブス』って言いかけた! そりゃあ私は可愛くないですよ。丸いですよ。どんくさいですよ。 振り返って、「でも」なんていい返せない自分が情けない。 「気をつけろ」 すいませんの『す』がでかかったとき、その人の脳天に、香奈ちゃんの腕が振り下ろされた。 「いってえ!」 女の子とは思えない豪快な香奈ちゃんのチョップに、その人は頭を抑えた。 「それが先輩に対する口のききかたかあ! 赤星(あかほし)のくせに!」 どうなんだ、と香奈ちゃんがすごむ。突然の香奈ちゃんの様子にびっくりしたけれど、かえって冷静になってしまった。 なんで香奈ちゃんは、私が先輩だと分かったんだろう。 赤星と呼ばれた人を見れば、泥に汚れたユニフォームを着て、頭には帽子をかぶっている。 あ、野球部の後輩か! 「すんません、上田先輩」 「ウチに謝ってどうする!」 「すんません。あと、赤星のくせに、は関係ないと思うっす」 「口答えするのはどの口だあ? 今日のウチは怒るぞ?」 香奈ちゃんの手が赤星と呼ばれた人のほっぺたをぐいと挟んだ。勘弁してください、と声が漏れてる。香奈ちゃん、怖いよ。 「あの、そこまで怒ってくれなくても」 おそるおそる言うと、香奈ちゃんは「雫が言うなら」と言ってその手を離した。 「ほれ、謝るのはこっちでしょ」 「いや、ぶつかってきたのはそっち――すんません」 香奈ちゃんにぎろりとにらまれて、赤星と呼ばれた人は、頭を下げてきた。 「あ、いや、良いよ。ぶつかったの私からだし、勝手にこけそうになったのも私だし」 「雫は優しすぎるって」 「そんなことない、と思うけど。ところで、野球部の一年生なんだよね?」 「そう。赤星一志(ひとし)って言う生意気な一年坊主」 あまり背は高くない。少しそばかすのあるよく日に焼けた頬はぶすっとしたままで、赤星っす、と彼は名乗った。
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4-5 名前:vellfire日時: 2012/10/23 22:21 No. 19 |
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「あ、横井雫です」 ぺこりと会釈する。彼と眼が合った。堀の深い顔立ちで、なんとなく外国人風に見える。 まじまじと見られて、目をそらしてしまう。なんでそんなに見てるの。なんか私の顔についてるの。 すると赤星君もすっと顔をそらしたのを感じた。 「ウチと同じ二年生。先輩だからね!」 「はあ」 「なんだ、その興味のなさは。雫はすっごい絵が上手いんだぞ」 「香奈ちゃん、それ全然関係ないから」 本当に、何の自慢にもならない。もう、出来るはずもない。 「自分帰るんで」 赤星君は大きな鞄を軽々と右肩にかかげた。 「みんなもう帰ったの? 早上がりでも結構自主練してる部員いるでしょ」 「キャプテンと副キャプテン以外は帰りましたよ。自分も相手させられたんですけど、投げすぎると肩やられちゃうんで」 「あー加減知らないからねえ」 「監督に走りこみも言われててしなきゃならないんで、お先っす」 「おー頑張って!」 お疲れ様でした、と言って赤星君は帽子を取る。額から汗がひと粒流れる。夕日に、きらりと光った。 帽子をかぶりなおして、背を向けたところで、赤星君は立ち止まった。 「そう言えば、横井先輩。四階の――美術室か。あそこから自分らの練習いつも見てますよね?」 顔から何か飛び出るかと思った。 なんで知ってるの? いや、なんでそんなこと言ったの? 「朝練の時間なんて自分らの他に学校来てる人なんてほとんどいないんで。 一箇所だけ校舎の窓あいて、そこに人がいたら気づきますって。あ、あと自分、目がいいんすよ。 どっかで見たことあるな、って思ったんすよね」 赤星君は「じゃ、失礼します」と言って、走っていった。 香奈ちゃんが、けがするなよ! と去りゆく背中に声をかけた。 「一年生なんだ。大変そうだね」 香奈ちゃんに何か言われる前に、私から話しかけた。 「そ。あいつ生意気だけど、期待の新入生、ってやつなの」 香奈ちゃんは少し得意げな声で答えた。 「そうなんだ。どういうところが?」 私が聞くと、香奈ちゃんは私の目を真剣に見た。 「――将来の、エース候補」 ごめん、どうすごいのか分かんない、って言ったら、香奈ちゃんにそれはもうがっくりされた。 「もういい! そんなことより早く行こう!」 香奈ちゃんに手を引かれながら、私は校門を出てバス停へ向かった。
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5-1 名前:vellfire日時: 2012/10/28 23:54 修正1回 No. 20 |
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バスの中から、外の景色を見ていた。自転車に乗って帰っていく生徒がちらほらいる。 住宅の間を進んでいくけれど、見えてくるのは木と家のハーモニーばかり。 それはそれで悪くないと思うけれど、本当に何もない。 私たちを乗せたバスが進む街は、県庁所在地にも関わらず、栄えてはいないのだ。 終点の駅前でおりると、さっきよりは人が増えた。 ハンバーガーショップとコーヒーショップには、学生が何組かいて、たむろしてる。 駅のロータリーから放射状に伸びた道には、居酒屋なんかもあるけれど、夕方のこの時間じゃまだ閑古鳥が鳴いてるみたいだ。 やっぱり田舎だなあ、って思う。 たまに都会に行くと、駅なんか巨大な迷路みたいで、人もたくさんいる。 みんな何をそんなに急ぐんだろうと言うほどに早足で歩いている。 そういうのを見ていると、この田舎の雰囲気が好きだなって思えて、私には合ってるな、って思う。
駅には隣接して複合ビルがある。ビルと言うほどの大きさは感じない。 公益施設の出張所とホテルにオフィスがメインで、申し訳程度に店舗がいくつかある。 リノリウムの床に、何の飾り気もない肌色の壁は、店舗がなかったら、学校に見間違えてしまいそうだった。 その中に、ささやかなゲームコーナーがある。 「香奈ちゃん、あの、遊ぶって、ここで?」 全く欲しくないものが入ったクレーンゲームに、メダルゲームくらいしかないのに。 プリクラもあるけれど、香奈ちゃんが向かっているのは全く違う場所だ。 「そうそう。ここでどうしてもしたいことがあるの」 このゲームコーナーにそんなものあったかなあ、と思った。 せめて駅から少し離れた総合アミューズメントセンターだと言うのならまだしも。 とは言え、駅からバスを乗り換えて、国道からかなり行ったところにあるので、休日でもなければ行けない。 「これよ、これ」 そう言って、香奈ちゃんは、パンチングマシーンの前に立った。
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5-2 名前:vellfire日時: 2012/11/05 21:12 修正1回 No. 21 |
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「えーと、香奈ちゃん、これはどういうことですか」 歌って遊べるところ、と言っていたのに、女二人でパンチングマシーンの前。まったく分からない。 「あのさ、さっき告白したって言ってたよね」 うん、そして、振られてしまった。 「振られちゃったのは、仕方ないと思うんだ」 香奈ちゃんは、鞄から財布を出した。花柄の可愛らしい財布だ。 「でも、その理由がさ」 百円玉を投入口に入れて、ぽんぽんとボタンを押す。 「進路も決めてない女とは付き合えない、だって。何をそんな現実語っちゃてるわけ?」 手にグローブをはめた。足を開いて右手を顔の横に構える。 「男だったら夢を語れって話じゃん。他に好きな人がいる、ってのなら分かるよ?」 ステップを踏んで右腕を引く。左手を脇に抱え込んだ。 「ウチは! いったい! 何に負けたんだ!!」 パンチが的にあたって、画面の映像がひずんだ。 そして、香奈ちゃんがもう一発放ったところで、私たちに嫌な視線が注がれた。 女の子がパンチングマシーンを相手にしていたら、異様に映るに決まっていると思う。 「あ、あのー、香奈ちゃ」 「あー、すっきりした!」 香奈ちゃんは、グローブを外して、こちらに向き直った。 「スカッとしたー」 香奈ちゃんは大きく息を吐いた。にっこり笑ってVサインを作ってる。 液晶モニターには、大きな蟹の化け物が映っていた。船をはさみで切断しようとしたところで結果が出てきた。 倒せてないじゃん、と思ったけれど、あまりに香奈ちゃんがすがすがしげな顔をしていたので、口にするのはやめておいた。
「ホントはそいつぶん殴ってやろうと思ったんだけど、さすがにそれは出来ないし。 ありがとね、付き合ってくれて。あ、いや、付き合わせちゃってごめんね、か」 ロータリーを歩きながら香奈ちゃんが手を合わせた。 「別にいいよ。香奈ちゃんのパンチ見てたら、なんか私もすかっとしたし」 「良かった。ドン引きされるかと思った」 引いたって言うよりは、理解できなくて戸惑ったと言ったほうが正しい。 でも、香奈ちゃんは嫌なことがあっても、こうやって切り替える方法を見つけて、実行出来てしまう。 それが、うらやましかった。 「ちょっとは、ね」 「ごめんごめんって。じゃ、いつものところに歌いにいこっか! 今日はRINで!」
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5-3 名前:vellfire日時: 2012/11/16 23:28 修正3回 No. 22 |
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歌は好き。歌うのは苦手。だから、音楽は聞く派だ。 音楽は心を整理してくれるような気がする。 体も心も大きくなるにつれて、やらなきゃいけないことが増えてきて、頭が追いつかなくなってきた。 そんなとき、時には悲しさを代弁してくれたり、一緒に楽しんでくれたり、当然のようにそばに居てくれる。 良い音、美しい言葉が、分かち合ってくれる。 だから携帯にはいつでも気分に合わせて聞けるように色んなアーティストの楽曲をいれてる。 最近のお気に入りは、RIN(りん)だ。 RINは、私たちのなかで流行している現役女子高生シンガーソングライターだ。 泣いてるような少し震えた声で歌うのが特徴的。私と同じ女子高生で有名になるなんて、なんてすごいんだろうと思う。 彼女の楽曲は、夢を追いかける人や恋する女の子を応援する歌が多い。 私たちは駅前から少しはなれて、川沿いの寂れたカラオケボックスにきていた。 「微妙に来にくいのが難点よね」 ひざに手をおいて香奈ちゃんは言った。 確かに、学校からだとバスが経由しないし、駅から行くには15分程度歩く必要がある。 「香奈ちゃんたちバス組には辛いかもね」 「中途半端な場所よね」 私の家からだったらそんなに遠くない。 けれどいったん帰って自転車でまたとなると、香奈ちゃんと遊びに行くならバスの時間をあわせる必要がある。 バスの時間は融通がきかず、そうするともう最初から一緒に行動したほうが楽なわけだ。 「学校が台地にあるせいでいいんじゃない? 坂道多いし、駅からの自転車はきついよね」 「そうね。ま、仕方ない。今日は歌おう!」 香奈ちゃんはそう言って私の手を引いた。 手続きをすませて、部屋に入った。このカラオケボックスは正直あまり綺麗ではない。 昔からあるらしくてどれもこれも年季が入っている。軽食の注文も食券制度でいちいちフロントに行く必要がある。 それでも利用するのは、とにかく安いからだ。 フリータイムの料金が平日は千円ぽっきり。一人ではなく、全員でだ。そしておいしくはないけれどドリンクバーもついてる。 人数が多ければ多いほど安くて、たとえ二人でも五百円。こんなに財布に優しいカラオケボックスは他にはないのだ! だから、不満はあるけれど、お馴染みの店なのだった。
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5-4 名前:vellfire日時: 2012/11/18 00:40 No. 23 |
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「一曲目はこれ!」 香奈ちゃんがリモコンをカラオケ本体に向けた。液晶モニターにタイトルが出る。 『これ良い歌よね。勇気の一雫って』 思わず香奈ちゃんと顔を見合わせた。二人で、全く同じことを口にしたからだ。 「ウチら性格とか全然違うのにほんと気が合うよね」 香奈ちゃんが小指を立てて手を差し出す。私も手を伸ばして、そうだねと答えて、小指を絡めた。 これは私たちが気持ちを確かめあうときのサインだ。 するっと指をほどいて、香奈ちゃんはモニターに顔を向けた。マイクを口に近づけて、歌い始める。 香奈ちゃんの透き通るような声が、部屋の中に響いた。 「RINって良い歌多いのになんで失恋ソングないんだろ」 カラオケを終えて駅に向かう道で、香奈ちゃんがなげいた。 「失恋したことがないからとか?」 「またまたー、そんなことあるわけないじゃん」 香奈ちゃんは指でノンノンと否定する。 私が、私たちには何とも言えないよね、と言うと、香奈ちゃんは、そりゃそうだ、と同意した。 「せっかく『勇気の一雫』ってウチが勇気出したのとおんなじようなのがあるのにさー。 なんで失恋したのをなぐさめてくれるようなのがないのよー。それで締めようと思ったのに」 「しょうがないよ。それより香奈ちゃんすごいね」 香奈ちゃんは首をかしげて、何が、と聞いてきた。 「告白なんて勇気のいることが出来て、その、振られちゃったけど、すぐ切り替えられて」 「突然どしたの?」 なんでもない、と答えると香奈ちゃんはさらに首をかしげた。 「あ、さては、雫も好きな人でも出来たな? 聞いてもいつも教えてくれないんだから、今日は聞いちゃうぞ。 さあ、この香奈ちゃんに話してみなさい。答えないのは無しね。振られた香奈ちゃんに冷たくするとあとが怖いよー」 香奈ちゃんは笑いながら身を乗り出してきた。香奈ちゃん、目が笑ってないです。ごめんなさい。 でも、全然嫌な気はしない。 それどころか体から悪いものを出すデトックスでもしているような感覚がある。 「あのね」 私は吐き出すように言った。 絵のこと。嘘のこと。永井先輩のこと。そして野球部を見てること。 好きな人のことは、言わないでおいた。 「ウチに言えることは――」 途中まで言いかけて香奈ちゃんは急に足をとめた。誰かを見つけたらしい。 「あれ、緑川先輩だ」
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6-1 名前:vellfire日時: 2012/11/18 22:40 修正1回 No. 24 |
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これはきっと夢だと思った。そうじゃないなら幻だと。 目と鼻の先、こんな近くに緑川先輩がいるなんて、そうに決まってる。 「キャプテン、お疲れ様です」 香奈ちゃんが緑川先輩のほうにかけていった。 こっそり頬をつねってみると、しっかり痛い。――夢じゃない! 緑川先輩は、駅に隣接したファストフード店から出てきたところみたいだった。 きっちりと刈り上げられた坊主頭に、ちょっと濃いめの眉がりりしい。 日焼けしたその肌にタートルネックのアンダーシャツをまとい、何でも包んでしまいそうな大きな体とその腕。 辺りはもうすっかり暗い。 お店の周りは明るいんだけど、緑川先輩自身が、キラキラ輝いて見えた。 ああ、このまま先輩の目の前に飛び出して、お疲れ様です、と声をかけたら。 きっと君誰、と言われちゃうから、横井雫ですはじめまして、と元気にはきはき言って。 これはぶりっ子だと思われてもいいから、いやそれはダメだけども、でもニッコリ笑って。 私と先輩の身長差は30センチくらいはあるだろうからきっと上目遣いになるしいいアピールになっちゃったりして。 先輩は私に突然可愛いねと言ってくれて、手を差し出してくれちゃったり私も自然と繋いで。 それからそれから。
なんて、想像が一気に駆け巡った。ヤバイ。私、テンパってる。 頭も足も宙に浮いたようにふわふわしてる。そんな私を香奈ちゃんが現実に戻してくれた。 「雫! 何してるの、こっちおいでよ!」 私は、緑川先輩を見ないようにしながら、香奈ちゃんのそばに駆け寄った。 「自主練あがりですよね?」 「そう。んで、小腹がすいたからちょっと軽く」 香奈ちゃんの問いに、少しハスキーな声で緑川先輩が答えた。 やばい声までかっこいい。 「あそこのハンバーガーショップのコロッケバーガーおいしいですよね。でもいいんですかー、そんなの食べて」 「いいよ、その分動くから。帰って素振りでもするさ。と言うかマネージャーまで和也(かずや)みたいなこと言うなよ」 香奈ちゃんと緑川先輩が話してる。私も話したい。 でも、無理。無理だ。でも何か言わなきゃ。何か言わないと、緑川先輩が帰ってしまう。 「あ、そう言えば黒川(くろかわ)先輩は一緒じゃないんですか?」 香奈ちゃんがまた緑川先輩に聞いた。 「あいつは先に帰ったよ」
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6-2 名前:vellfire日時: 2012/11/18 23:26 No. 25 |
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緑川先輩は腕を組みながら困ったもんだ、となげいた。 「家に帰って秘密特訓とか?」 香奈ちゃんは、これは違うか、と一人納得しだした。 「ないだろうな。キャッチの俺なしで特訓はない。エースなんだからちゃんとして欲しいのに」 「でも今日は練習自体は早く終わる日ですしこの時間までやってたのなら問題ないでしょう?」 「まあな。だけど最近あいつ付き合い悪いんだよなあ。上田はこんな時間まで何やってたの?」 「遊んでました!」 香奈ちゃんが答えると、緑川先輩は、やれやれというように首を振った。 「複数人だからって、女だけでこんな時間までってのは感心しないな。あ、そっちの子は大丈夫なの?」 香奈ちゃんは大丈夫ですと答えながら、ね、と私に同意を求めてきた。 でも私は、体が固まってしまっていて何も言えない。 「そういう意味じゃなくて、話についてこれてないんじゃないかってこと。さっきから気になってたんだけど」 緑川先輩がそう言ったから、香奈ちゃんは私の顔をのぞき込んできた。 「なんでもないけど、野球部の話はよく分からないから」 答えた私の声はどんなだっただろう。震えてたかも。 「内輪の話でごめんなー。えーと」 「横井しじゅくです」 かんだー! 香奈ちゃんが、声をあげて笑った。緑川先輩も釣られるように、くすくすと笑う。 「おもしろい子だなー」 うう、恥ずかしい。でも、緑川先輩の笑顔が見れた。そう喜んでいたときだ。 急に頭が大きな何かで覆われた。驚いて視線をあげると、緑川先輩の腕が私の頭に伸びてる。 鼻も頬も耳も顔どころか体中が熱くなった。周りから見たら、ゆでたこみたいになってるんじゃないだろうか。 「あ、あの」 そう言いかけると、急に頭を覆っていた感覚が消え去った。 「はい女の子の頭を気安く触らない! セクハラですから!」 香奈ちゃんが怒り出した。 「そうか? ちっちゃいな、って思って。つい」 「つい、なんて考えだからダメなんです! 勘違いする子もいるんですから! 何の気もないのに、この前もあったでしょう!」 香奈ちゃんがどこかの先生に見えてきた。 「悪い悪い。と、じゃあ俺帰るわ。お前らも気をつけろよ」 「まったくもう。お疲れ様でした」 香奈ちゃんはあきれたように緑川先輩を見送った。 「あの、香奈ちゃん。私も、勘違いした子――かも」
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6-3 名前:vellfire日時: 2012/11/22 22:44 No. 26 |
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「まじで?」 香奈ちゃんは、驚きながら言った。 こくりとうなづくと、もう一度「まじで?」と確かめてきた。 「――まじ、です」 だって、朝練の時間にまで合わせて見ている憧れの先輩だよ? そんな人に頭をなでられるなんて、夢のようだ。 「そっか。そっかあ」 香奈ちゃんはそう言って、ケラケラ笑った。 「どうしてちょっと嬉しそうなの?」 「雫がそうだなんて聞いてね。雫って、すごく奥手そうだし、聞き専だったから」 確かに、香奈ちゃんとは一年生からの付き合いだけれど、そういう話はしたことはなかったな、と思った。 「でも、よりによって緑川先輩かあ。さっき言ってたことだけど、ちょっと鈍感なのよね」 「それは大丈夫。憧れてるだけだから」 香奈ちゃんだったら、「恋は動かなきゃ!」と言いそうだったけれど、『そっか』とだけ言った。 私と緑川先輩は天と地ほども離れていて、言っても仕方のないことなのは、明白だろうと思う。 香奈ちゃんに分からないはずがない。 「じゃあ、止めないほうが良かったね。憧れの緑川先輩と触れ合えて。もうこのままどこかへ連れてってーみたいな?」 「香奈ちゃん」 なんともなく、二人でケラケラと笑いあった。 「横井さん!」 突然呼ばれて、香奈ちゃんともども振りかえった。 永井先輩だ。 「あなた、何してるの」 目が合った瞬間に、永井先輩は言った。その目は、笑っていない。 返事に困っていると、香奈ちゃんが横から一歩前に出た。 「遊んでましたけど、何か?」 口調がとげとげしいのは、香奈ちゃんも永井先輩の雰囲気を察したのだろうと思った。 永井先輩は、きっと怒ってる。 「あなたは?」 「雫の友達の上田香奈です」 永井先輩は香奈ちゃんを上から下まで見渡した。 ジャージにウインドブレーカー姿の香奈ちゃんを見て、何を思ったのだろうか。 永井先輩はため息をつくと、香奈ちゃんから視線を外して、私を見た。ぐさりと刺さるようで、痛い。 「私は、帰りなさい、とは言ったけど、遊びなさいとは言ってないわよね?」 はい、と私が答えると、香奈ちゃんが割って入った。 「ちょっと何なんですか。雫の親か何かなんですか」 「悪いけど、あなたはちょっと黙っててもらえる?」 急に、世界の空気の成分が、変わってしまったように感じた。
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6-4 名前:vellfire日時: 2012/11/26 23:07 修正1回 No. 27 |
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- 「横井さんは今がどういう時期か分かってるの?」
「――はい」 絵画コンクールに向けて、絵を描く上での最初のターニングポイントだ。 ここをきっちり越えられるかどうかが作品の肝になる。 答えは、分かってしまっていた。だからこそ、何も答えることが出来ない。 「今度は受験生の担任ですか。残念ながらまだ2年生なんですけど?」 また、香奈ちゃんが言った。どんどん言葉がきつくなってる。 「あなたは黙ってなさい!」 普段の永井先輩からは想像もつかないような声だ。あの香奈ちゃんが黙り込んでしまった。 「どうなの?」 永井先輩の目は私をまっすぐとらえて離さない。 「すみません」 目をそらして答えた。よれよれになった黒い靴がそこにある。私は、この靴と同じで惨めだ。 「もう一度言うわね。謝って欲しいわけじゃないわ」 また言ってしまいそうになるのを必死になってこらえる。 「横井さん、あなたはこれでいいと思ってるの? どうしようか考えてるの?」 美術部はやめたい。でも、やめたくない。 絵は描きたい。でも描けない。 「答えられないのね」 永井先輩は大きなため息をつくと、肩にかけた鞄に手をやった。ファスナーをあけて何かを取り出した。 二つ折りの紙だ。 「私はもっとあなたに頑張って欲しかったけれど、仕方ないわね」 よく考えなさい、と私に差し出した。 ――紙には『退部届け』の文字が書かれている。 香奈ちゃんがのぞき込んできて、声にならない声をあげるように息を吸ってから、永井先輩に向かった。 「ちょっとこれ、どういうことですか! 雫がなんでやめなきゃならないんですか! 雫はすっごい絵がうまいんだから!」 香奈ちゃんがどなった。 仕事帰りのサラリーマンがちらほらこちらに視線を寄せているのを感じる。 「絵がうまいことと作品の良し悪しは関係ないのよ。完成に至るまでに、何を思い、何を感じ、何を残そうとしたか、なのよ。 美術館で『変な絵!」って言いだしそうなあなたみたいな子には分からないでしょうね」 「そんなものが分かって何の意味があるんですか!」 私は食い下がる香奈ちゃんの腕を引いた。 「香奈ちゃん、もういいの。ありがとう」 雫! と言った香奈ちゃんを抑えるようにして、私は永井先輩に頭を下げた。 「ごめんね」 私は、その場から逃げた。前が見えないのは涙のせいだ。
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7-1 名前:vellfire日時: 2012/11/29 23:59 修正2回 No. 28 |
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- 息が切れていた。口はからからなのに、なんだかしょっぱい。
汗が口に入ったのだろうか。それとも、涙だろうか。きっと両方だろうと思う。 どうして何も言えなかったんだろう。 どうして逃げ出してしまったんだろう。 辞めたくないです、でも絵は描けません、なんて言えるはずはなかった。 気がつけば、私は家の前に立っていた。ふるえるひざを抑えて、息を整えた。 ドアをあけようとして、ぴた、と手が止まった。遅くなると連絡するのを忘れていた、と思い出しだからだ。 お母さんは何とかなるとしても、お父さんはこういうことにはうるさい。 いつもならこの時間はお風呂からあがって、ビールでも飲んでいるはずだ。 玄関を開けたらそこに立っている、なんてことだったらどうしよう。 いつも「俺も若いときは――」なんて言いながら、こういうときにかぎって手の平を返したりする。 大人って、卑怯だ。 おそるおそるノブに手をかける。『カチャ』の音に必要以上に敏感になってしまう。 あけたとたんに、人影が見えた。とにかく頭を下げる。 「遅くなってごめんなさい! 連絡も忘れてごめんなさい!」 あんまり怒らないでください。今日の私は、耐えられません。 「何してんの? 姉ちゃん」 こいつか、とほっとしたのもつかの間で、こいつもこいつで面倒くさいなと思った。 「何でもない。お母さんは? あと、お父さんも」 「母さんはドラマ見てる。父さんは――」 誠二は最後を言いかけて、リビングの方を見た。 「カンカンだよ」 やっぱり、とため息をついてしまう。 「どうすんだよ。こんな時間にってことはついに彼氏の一人でも出来たの? それはそれでやばいだろうけど」 もちろんいるはずもない。でも、こいつに向かって堂々といません、と言うのも、ちょっと悔しい。 「その様子じゃまだみたいだな。んじゃ、ちょっとは父さんもマシなんじゃね?」 そうだった。今はそんなことよりもお父さんだ。 どうしよう、とあせっていると、誠二が笑い出した。どういうこと? 「嘘だよ。今日は残業だって。あー姉ちゃんのあせりよう。おもしれー」 バカ! と殴りつけてやる。 「悪かったって。なんならお詫びに男でも紹介してやろうか?」 「そんな気分じゃないの」 扉の向こうのお母さんに、心の中でそっと、ごめんね、と謝って、階段をのぼった。
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7-2 名前:vellfire日時: 2012/12/03 21:47 修正1回 No. 29 |
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- 部屋に入って、鞄をベッドの脇に置いて、そのまま倒れこむようにして体をうずめた。
制服のままだ。このままじゃファンデが枕についちゃう。着替えなきゃ。 いや、それよりも香奈ちゃんに謝った方がいい。逃げ出して、ごめんね、って。 私、何をやらなきゃならないんだろう。何が、したいのだろう。 部屋の中は、画材のにおいがする。 起き上がって、鞄をつかむ。部屋の隅のキャンバスに向かって、投げつけた。 壁に当たって鞄が、はね返る。キャンバスには、当たらなかった。 鞄の口から、ひらりと退部届けが舞って、床に落ちた。強くにぎりしめていたのか、くしゃくしゃだった。 * * * * 眠いということは、人間の三大欲のひとつなんだから、恥ずかしがることはないと思う。 睡眠にはレム睡眠とノンレム睡眠の2種類がある、ってテレビでみたことがある。 そのふたつは寝ている間に交互に繰り返されていて、夢を見るのはレムの方だとかなんとか。 私は朝おきたとき、怖い夢を覚えているタイプだ。 いまは、眠気を助長する生理現象がやってきた所だった。
「そのあくびはやばいんじゃない? 口開きすぎだって」 二年三組、私の教室で、香奈ちゃんが話しかけてきた。 「してないもん。絶対してないもん」 口では否定してみたけれど苦しい。絶対してたから。手で口を覆い隠すくらいはしておけばよかった、と後悔した。 「どの口が言うのかなあ。朝から寝てたのに。女の子で授業中に立たされるのはやばいと思うよー」 そう言われてしまうのは仕方がない。実際、寝てたんだから。 一限目から四限目まで寝てしまうくらいなら、どうせならアレのせいにして、保健室に行っておけば良かった。 いや、それは恥ずかしい。 やっぱり、風邪ってことにしよう。なんて考えても、もう遅いのだけれど。 「眠れなかったの?」 香奈ちゃんは、さっきまでよりトーンを落として言った。 「うん」 私が答えると、香奈ちゃんはそりゃそうよねとうなづいた。 香奈ちゃんは、昨日私が逃げ出してしまった後のことを聞いても、大丈夫だよ、とだけ言っていた。 今も私に明るく話しかけてくれる。心配させてごめんね、って言うと、また大丈夫だよ、と答えて、ニコッと笑った。 私は、香奈ちゃんの笑顔に答えることが出来なかった。 今日は、美術室には行っていない。
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7-3 名前:vellfire日時: 2012/12/04 20:18 修正1回 No. 30 |
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体にぽっかりと穴があいてしまったように感じていた。 あれ以来、朝早起きして美術室に行くことはなくなった。部活で行くことも、だ。 あれだけ楽しみにしていた練習での緑川先輩の姿をもう一週間も見ていない。 大事な何かをなくしてしまったような不思議な感覚がする。でも、学校ではそれほど辛くないのは、なぜなんだろう。 思い当たる節が、ひとつだけある。 油のにおいを嗅がなくなったからだと思う。だから今は家に帰るのが辛くて、家の中ではリビングにいることが多い。 ぼんやりと教室の自分の席で、誰もいないグラウンドを眺めていた。
「雫! しーずーくー!」 香奈ちゃんの声がした。声の方に慌てて振り向く。 何? って聞くと、香奈ちゃんはあきれたように巾着を見せた。 「ごはんいこーよ!」 「もうそんな時間?」 チャイムがなったことにも気づかなかった。 「ちょっと大丈夫?」 香奈ちゃんが、心配そうな表情になる。 そのとき『ぐーぎゅるるる!』と私の腹の虫がなった。 「ようやくカバからヒトに戻ったと思ったら、今度は牛か何かですかー?」 香奈ちゃんがケラケラ笑う。それは言わないで、と言って、私は席を立った。 巾着を片手に教室を出て、階段を降りた。何に使うのかよく分からない教室たちを横切り、渡り廊下に出る。 体育館へと続く渡り廊下には自販機があって、ベンチや小さいテーブルもいくつかある。中庭と言う感じだ。 お昼はここで香奈ちゃんと食べるのがお決まりのルールだった。
空いているベンチに座って、お弁当を広げた。 香奈ちゃんが『いただきます!』と手を合わせて、はしを構える。出し巻き卵をつかんで口に運んだ。 「あれ、そう言えば、グロス変えた?」 香奈ちゃんの唇を見ていて、ふと気づいた。 「よく気付いたねー。先輩に勧められたんだけどさ、どう?」 「すっごい可愛いと思うよ。キラキラ光ってて透き通ってる感じ。ブチュってしたくなるよ」 「ホントにー? そうそう、キスしたくなる、ってクチコミで評判らしいの。まだ結果でないけど」 香奈ちゃんは嬉しそうに手鏡にぽってりとした唇を写している。 「でもさ、実は、あんまり意味ないんだよね。あたし野球部のマネじゃん? 汗でメイク落ちちゃうし、風に当たると逆に渇いちゃうんだよね」 野球部の単語に、あっ、と声が漏れてしまった。
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7-4 名前:vellfire日時: 2012/12/04 22:33 No. 31 |
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ごめんね、と香奈ちゃんが言った。謝る必要なんてない。 それから、香奈ちゃんはよくしゃべった。さすがに自他共に認める盛り上げ担当だな、って思う。 私に気を使ってくれているのかときどき話題を選んでいるように見えた。 「ごちそうさま!」 香奈ちゃんは手を合わせると、水筒のお茶を口に含んだ。ふたを戻しながら向かいの私のお弁当をのぞきこむ。 「これおいしそー! もーらいっ!」 ニュッとはしが伸びて、コロッケが香奈ちゃんの口に吸い込まれた。 本当においそうに食べてて、なんだか嬉しくなってくる。 「なに笑ってるのよお。って、雫、全然食べてないじゃん!」 「食欲でなくって」 私は、はしをケースにしまった。 「やっぱり、きついよね。雫、最近ずっとぼーっとしてるから」 お茶を水筒のふたに注ぎながら、香奈ちゃんが言った。 「そんな風に見える?」 「見えるよ。気力を失いましたって感じで、ウチの話も全然聞いてなかったし。ホントに大丈夫?」 涙ぐみそうになって、慌てて袖で目をぬぐった。 「大丈夫だと思う」 つくろうように、答えた。嫌な沈黙が続いた。そう思っていたのは、私だけかもしれないけれど。 予鈴がなって、周りの子たちがぞろぞろ戻りはじめたとき、香奈ちゃんが意を決したように言った。 「コンクールの絵を描いたあとって、どうなるの?」 「どうって、選考があって、もし受賞なんかしちゃったら、どこか会場に飾られたり」 「ああ、そういうことじゃなくって、絵を描いたら、どうなれるの? 何になれるの?」 「いろいろある――よ」 「コンクールの絵を描いたからなれるわけじゃないよね? 美術部だから、なれるわけじゃないよね?」 そう言われたら、そうだね、と答えるしかなかった。 美大に行こうと思っても、学校の勉強はもちろん出来ないといけないし、専門技術は学校では身につかない。 「だったら」 香奈ちゃんは、私の目を見た。 「美術部辞めても、問題ないよね? 前に話してたとき、辞めたがってるように感じたし」 「それは」 「ウチ考えたの。でね、すっごい良いこと、思いついたんだ! 驚かないでね?」 香奈ちゃんの重心が前に来ているのが分かった。言いたくて仕方ないって顔をしてる。 「なによお」 「野球部のマネージャーになっちゃいなよ!」 たぶん、私はカバみたいな口になってるんじゃないだろうか。
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7-5 名前:vellfire日時: 2012/12/06 22:54 No. 32 |
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――美術部、辞めた方がいいんじゃない? ――辛いのは、やっぱり良くないと思うの。 ――それに野球部のマネージャーなら、ね。 ――緑川先輩! 一石二鳥! ね?
家に帰って、テストのとき以外ろくに座らない学習机の椅子に座って、香奈ちゃんの言葉を思い出していた。 机の本棚には、美術関連の本がたてられている。どれも、前にいつ開いたか思い出せなかった。 視線を落として、しわを伸ばした退部届けと、相対した。 幼い頃から好きだった絵から、離れてしまうのだろうか。 本当にそれでいいのだろうか。でも、目の前に現れた好機を逃がすなんて馬鹿にもほどがある。 席を立って、部屋の隅を見た。 隅っこに寄せられたキャンバスと画材道具を床にならべた。 壁に立てかけていたイーゼルを引っ張り出して、三脚を広げる。横材にキャンバスを固定した。 何分ぐらい経ったのだろう。分かるのは、キャンバスは、真白い姿のままだってこと。部屋の明かりが反射して、見ていられない。 お前なんか嫌いだ。お前なんかに見られたくない、って、キャンバスに言われているみたいだ。 ほほにひとすじの生ぬるい感覚が伝った。私、もう本当に描けないんだ。 私は、涙をぬぐって、部屋を飛び出した。 となりの誠二の部屋の扉を乱暴に叩く。 「誠二! ちょっと!」 反応がないので、何度も叩いた。何回目かで、うるせーな、って声がして、ドアが開いた。 「何だよ」 ぶっきらぼうに誠二が言った。本当に迷惑そうな顔をしている。 「ちょっと手伝って。これからは、私が窓を開けても、アンタも一緒に開けられるわよ」 私は誠二の腕をつかんで、部屋から引っ張り出した。そのまま自分の部屋に進む。 「急になんだよ。って言うか、離せよ」 「これ物置に運ぶの手伝って」 そう言って私は、部屋のキャンバスを指差した。 「はぁ? それいるんじゃねーの? つーか、自分でやれよ」 「いいから、運びなさい! こんな大きなもの持って階段から落ちでもしたらどうするの!」 「わかったよ」 誠二にイーゼルを持たせ、私はキャンバスと画材を持って階段をおりた。 玄関を出て、庭に行く。象が乗っても耐えられます、と宣伝されていた物置を開けて、私は絵にさよならを告げた。 「泣いてんのかよ」 うるさい。これで、いいんだ。
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7-6 名前:vellfire日時: 2012/12/06 23:40 No. 33 |
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深呼吸した。ひざが、手が、震えてる。 手の平に『人』と書いて飲み込んだ。のどを通って胃を抜けて、おなかの底で波紋が広がるように浸透していく。 美術室のドアに手をかけた。 お母さんは、私を怒りはしなかった。 嘘ついててごめんなさい、と謝ったら、話してくれたから許す、と言ってくれた。 そして、次にやりたいことを頑張りなさい、と応援してくれた。 香奈ちゃんは、ここに来る前に、小指を立てて、手を差し出した。 「ファイト」 そう言って、ニコッと笑って送り出してくれた。 私、逃げるためかもしれないけれど、頑張ってみる。 ドアを開けると、中からふわっと風を浴びた。潮のにおいと、油のにおいが鼻に来る。 えづきそうになるのをこらえて、一歩足を踏み入れた。 目の前には、絵を描いている永井先輩がいる。退部届けをぐっと握り締めて、私は必死に歩を進めた。 「永井部長」 声をかけると、永井先輩は絵筆を置いて、こちらを見た。切れ長の視線が痛い。怖い。 「ご迷惑を、おかけしました」 退部届けを、差し出す。永井先輩は、驚くほどあっさりと、退部届けを受け取った。 「そう。本当に、持ってくるなんてね」 永井先輩がため息をついた。 「あなたにとって、絵は、その程度のものだったってことね」 分かりました、と言って、永井先輩は、またキャンパスに向かった。 外から、野球部の声が聞こえる。練習が始まったみたいだ。 「失礼しました」 頭を下げてから、きびすを返す。 「あなたには、期待していたのに。残念だわ」 すみません、とも何も言わずに、私は美術室をあとにした。 「お疲れ」 美術室を出てドアを閉めると、香奈ちゃんがいた。いつものジャージ姿だ。 香奈ちゃあん、と胸に飛び込む。 「雫、頑張ったねー。よしよし」 香奈ちゃんが私の頭をなでた。私はまた、泣いてしまう。 好きだったものを捨てる悲しさと、今好きなものに近付ける嬉しさと、入り混じった涙。 「歓迎するよ。野球部に」 私はこれから、新しい道に飛び込むんだ。
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