個別記事閲覧 7-1 名前:vellfire日時: 2012/11/29 23:59 修正2回 No. 28
      
 息が切れていた。口はからからなのに、なんだかしょっぱい。
 汗が口に入ったのだろうか。それとも、涙だろうか。きっと両方だろうと思う。
 どうして何も言えなかったんだろう。
 どうして逃げ出してしまったんだろう。
 辞めたくないです、でも絵は描けません、なんて言えるはずはなかった。
 気がつけば、私は家の前に立っていた。ふるえるひざを抑えて、息を整えた。
 
 ドアをあけようとして、ぴた、と手が止まった。遅くなると連絡するのを忘れていた、と思い出しだからだ。
 お母さんは何とかなるとしても、お父さんはこういうことにはうるさい。
 いつもならこの時間はお風呂からあがって、ビールでも飲んでいるはずだ。
 玄関を開けたらそこに立っている、なんてことだったらどうしよう。
 いつも「俺も若いときは――」なんて言いながら、こういうときにかぎって手の平を返したりする。
 大人って、卑怯だ。
 
 おそるおそるノブに手をかける。『カチャ』の音に必要以上に敏感になってしまう。
 あけたとたんに、人影が見えた。とにかく頭を下げる。
「遅くなってごめんなさい! 連絡も忘れてごめんなさい!」
 あんまり怒らないでください。今日の私は、耐えられません。
「何してんの? 姉ちゃん」
 こいつか、とほっとしたのもつかの間で、こいつもこいつで面倒くさいなと思った。
「何でもない。お母さんは? あと、お父さんも」
「母さんはドラマ見てる。父さんは――」
 誠二は最後を言いかけて、リビングの方を見た。
「カンカンだよ」
 やっぱり、とため息をついてしまう。
「どうすんだよ。こんな時間にってことはついに彼氏の一人でも出来たの? それはそれでやばいだろうけど」
 もちろんいるはずもない。でも、こいつに向かって堂々といません、と言うのも、ちょっと悔しい。
「その様子じゃまだみたいだな。んじゃ、ちょっとは父さんもマシなんじゃね?」
 そうだった。今はそんなことよりもお父さんだ。
 どうしよう、とあせっていると、誠二が笑い出した。どういうこと?
「嘘だよ。今日は残業だって。あー姉ちゃんのあせりよう。おもしれー」
 バカ! と殴りつけてやる。
「悪かったって。なんならお詫びに男でも紹介してやろうか?」
「そんな気分じゃないの」
 扉の向こうのお母さんに、心の中でそっと、ごめんね、と謝って、階段をのぼった。
 

個別記事閲覧 7-2 名前:vellfire日時: 2012/12/03 21:47 修正1回 No. 29
      
 部屋に入って、鞄をベッドの脇に置いて、そのまま倒れこむようにして体をうずめた。
 制服のままだ。このままじゃファンデが枕についちゃう。着替えなきゃ。
 いや、それよりも香奈ちゃんに謝った方がいい。逃げ出して、ごめんね、って。
 私、何をやらなきゃならないんだろう。何が、したいのだろう。
 部屋の中は、画材のにおいがする。
 起き上がって、鞄をつかむ。部屋の隅のキャンバスに向かって、投げつけた。
 壁に当たって鞄が、はね返る。キャンバスには、当たらなかった。
 鞄の口から、ひらりと退部届けが舞って、床に落ちた。強くにぎりしめていたのか、くしゃくしゃだった。
 
 * * * *
 
 眠いということは、人間の三大欲のひとつなんだから、恥ずかしがることはないと思う。
 睡眠にはレム睡眠とノンレム睡眠の2種類がある、ってテレビでみたことがある。
 そのふたつは寝ている間に交互に繰り返されていて、夢を見るのはレムの方だとかなんとか。
 私は朝おきたとき、怖い夢を覚えているタイプだ。
 いまは、眠気を助長する生理現象がやってきた所だった。

「そのあくびはやばいんじゃない? 口開きすぎだって」
 二年三組、私の教室で、香奈ちゃんが話しかけてきた。
「してないもん。絶対してないもん」
 口では否定してみたけれど苦しい。絶対してたから。手で口を覆い隠すくらいはしておけばよかった、と後悔した。
「どの口が言うのかなあ。朝から寝てたのに。女の子で授業中に立たされるのはやばいと思うよー」
 そう言われてしまうのは仕方がない。実際、寝てたんだから。
 一限目から四限目まで寝てしまうくらいなら、どうせならアレのせいにして、保健室に行っておけば良かった。
 いや、それは恥ずかしい。
 やっぱり、風邪ってことにしよう。なんて考えても、もう遅いのだけれど。
「眠れなかったの?」
 香奈ちゃんは、さっきまでよりトーンを落として言った。
「うん」
 私が答えると、香奈ちゃんはそりゃそうよねとうなづいた。
 香奈ちゃんは、昨日私が逃げ出してしまった後のことを聞いても、大丈夫だよ、とだけ言っていた。
 今も私に明るく話しかけてくれる。心配させてごめんね、って言うと、また大丈夫だよ、と答えて、ニコッと笑った。
 私は、香奈ちゃんの笑顔に答えることが出来なかった。
 今日は、美術室には行っていない。

個別記事閲覧 7-3 名前:vellfire日時: 2012/12/04 20:18 修正1回 No. 30
      

 体にぽっかりと穴があいてしまったように感じていた。
 あれ以来、朝早起きして美術室に行くことはなくなった。部活で行くことも、だ。
 あれだけ楽しみにしていた練習での緑川先輩の姿をもう一週間も見ていない。
 大事な何かをなくしてしまったような不思議な感覚がする。でも、学校ではそれほど辛くないのは、なぜなんだろう。
 思い当たる節が、ひとつだけある。
 油のにおいを嗅がなくなったからだと思う。だから今は家に帰るのが辛くて、家の中ではリビングにいることが多い。
 ぼんやりと教室の自分の席で、誰もいないグラウンドを眺めていた。

「雫! しーずーくー!」
 香奈ちゃんの声がした。声の方に慌てて振り向く。
 何? って聞くと、香奈ちゃんはあきれたように巾着を見せた。
「ごはんいこーよ!」
「もうそんな時間?」
 チャイムがなったことにも気づかなかった。
「ちょっと大丈夫?」
 香奈ちゃんが、心配そうな表情になる。
 そのとき『ぐーぎゅるるる!』と私の腹の虫がなった。
「ようやくカバからヒトに戻ったと思ったら、今度は牛か何かですかー?」
 香奈ちゃんがケラケラ笑う。それは言わないで、と言って、私は席を立った。
 巾着を片手に教室を出て、階段を降りた。何に使うのかよく分からない教室たちを横切り、渡り廊下に出る。
 体育館へと続く渡り廊下には自販機があって、ベンチや小さいテーブルもいくつかある。中庭と言う感じだ。
 お昼はここで香奈ちゃんと食べるのがお決まりのルールだった。

 空いているベンチに座って、お弁当を広げた。
 香奈ちゃんが『いただきます!』と手を合わせて、はしを構える。出し巻き卵をつかんで口に運んだ。
「あれ、そう言えば、グロス変えた?」
 香奈ちゃんの唇を見ていて、ふと気づいた。
「よく気付いたねー。先輩に勧められたんだけどさ、どう?」
「すっごい可愛いと思うよ。キラキラ光ってて透き通ってる感じ。ブチュってしたくなるよ」
「ホントにー? そうそう、キスしたくなる、ってクチコミで評判らしいの。まだ結果でないけど」
 香奈ちゃんは嬉しそうに手鏡にぽってりとした唇を写している。
「でもさ、実は、あんまり意味ないんだよね。あたし野球部のマネじゃん? 
 汗でメイク落ちちゃうし、風に当たると逆に渇いちゃうんだよね」
 野球部の単語に、あっ、と声が漏れてしまった。

個別記事閲覧 7-4 名前:vellfire日時: 2012/12/04 22:33 No. 31
      

 ごめんね、と香奈ちゃんが言った。謝る必要なんてない。
 それから、香奈ちゃんはよくしゃべった。さすがに自他共に認める盛り上げ担当だな、って思う。
 私に気を使ってくれているのかときどき話題を選んでいるように見えた。
「ごちそうさま!」
 香奈ちゃんは手を合わせると、水筒のお茶を口に含んだ。ふたを戻しながら向かいの私のお弁当をのぞきこむ。
「これおいしそー! もーらいっ!」
 ニュッとはしが伸びて、コロッケが香奈ちゃんの口に吸い込まれた。
 本当においそうに食べてて、なんだか嬉しくなってくる。
「なに笑ってるのよお。って、雫、全然食べてないじゃん!」
「食欲でなくって」
 私は、はしをケースにしまった。
「やっぱり、きついよね。雫、最近ずっとぼーっとしてるから」
 お茶を水筒のふたに注ぎながら、香奈ちゃんが言った。
「そんな風に見える?」
「見えるよ。気力を失いましたって感じで、ウチの話も全然聞いてなかったし。ホントに大丈夫?」
 涙ぐみそうになって、慌てて袖で目をぬぐった。
「大丈夫だと思う」
 つくろうように、答えた。嫌な沈黙が続いた。そう思っていたのは、私だけかもしれないけれど。
 予鈴がなって、周りの子たちがぞろぞろ戻りはじめたとき、香奈ちゃんが意を決したように言った。
「コンクールの絵を描いたあとって、どうなるの?」
「どうって、選考があって、もし受賞なんかしちゃったら、どこか会場に飾られたり」
「ああ、そういうことじゃなくって、絵を描いたら、どうなれるの? 何になれるの?」
「いろいろある――よ」
「コンクールの絵を描いたからなれるわけじゃないよね? 美術部だから、なれるわけじゃないよね?」
 そう言われたら、そうだね、と答えるしかなかった。
 美大に行こうと思っても、学校の勉強はもちろん出来ないといけないし、専門技術は学校では身につかない。
「だったら」
 香奈ちゃんは、私の目を見た。
「美術部辞めても、問題ないよね? 前に話してたとき、辞めたがってるように感じたし」
「それは」
「ウチ考えたの。でね、すっごい良いこと、思いついたんだ! 驚かないでね?」
 香奈ちゃんの重心が前に来ているのが分かった。言いたくて仕方ないって顔をしてる。
「なによお」
「野球部のマネージャーになっちゃいなよ!」
 たぶん、私はカバみたいな口になってるんじゃないだろうか。

個別記事閲覧 7-5 名前:vellfire日時: 2012/12/06 22:54 No. 32
      


 ――美術部、辞めた方がいいんじゃない?
 ――辛いのは、やっぱり良くないと思うの。
 ――それに野球部のマネージャーなら、ね。
 ――緑川先輩! 一石二鳥! ね?

 家に帰って、テストのとき以外ろくに座らない学習机の椅子に座って、香奈ちゃんの言葉を思い出していた。
 机の本棚には、美術関連の本がたてられている。どれも、前にいつ開いたか思い出せなかった。
 視線を落として、しわを伸ばした退部届けと、相対した。
 幼い頃から好きだった絵から、離れてしまうのだろうか。
 本当にそれでいいのだろうか。でも、目の前に現れた好機を逃がすなんて馬鹿にもほどがある。
 席を立って、部屋の隅を見た。
 隅っこに寄せられたキャンバスと画材道具を床にならべた。
 壁に立てかけていたイーゼルを引っ張り出して、三脚を広げる。横材にキャンバスを固定した。
 
 何分ぐらい経ったのだろう。分かるのは、キャンバスは、真白い姿のままだってこと。部屋の明かりが反射して、見ていられない。
 お前なんか嫌いだ。お前なんかに見られたくない、って、キャンバスに言われているみたいだ。
 ほほにひとすじの生ぬるい感覚が伝った。私、もう本当に描けないんだ。
 私は、涙をぬぐって、部屋を飛び出した。
 
 となりの誠二の部屋の扉を乱暴に叩く。
「誠二! ちょっと!」
 反応がないので、何度も叩いた。何回目かで、うるせーな、って声がして、ドアが開いた。
「何だよ」
 ぶっきらぼうに誠二が言った。本当に迷惑そうな顔をしている。
「ちょっと手伝って。これからは、私が窓を開けても、アンタも一緒に開けられるわよ」
 私は誠二の腕をつかんで、部屋から引っ張り出した。そのまま自分の部屋に進む。
「急になんだよ。って言うか、離せよ」
「これ物置に運ぶの手伝って」
 そう言って私は、部屋のキャンバスを指差した。
「はぁ? それいるんじゃねーの? つーか、自分でやれよ」
「いいから、運びなさい! こんな大きなもの持って階段から落ちでもしたらどうするの!」
「わかったよ」
 誠二にイーゼルを持たせ、私はキャンバスと画材を持って階段をおりた。
 玄関を出て、庭に行く。象が乗っても耐えられます、と宣伝されていた物置を開けて、私は絵にさよならを告げた。
「泣いてんのかよ」
 うるさい。これで、いいんだ。

個別記事閲覧 7-6 名前:vellfire日時: 2012/12/06 23:40 No. 33
      


 深呼吸した。ひざが、手が、震えてる。
 手の平に『人』と書いて飲み込んだ。のどを通って胃を抜けて、おなかの底で波紋が広がるように浸透していく。
 美術室のドアに手をかけた。
 
 お母さんは、私を怒りはしなかった。
 嘘ついててごめんなさい、と謝ったら、話してくれたから許す、と言ってくれた。
 そして、次にやりたいことを頑張りなさい、と応援してくれた。
 香奈ちゃんは、ここに来る前に、小指を立てて、手を差し出した。
「ファイト」
 そう言って、ニコッと笑って送り出してくれた。
 私、逃げるためかもしれないけれど、頑張ってみる。
 
 ドアを開けると、中からふわっと風を浴びた。潮のにおいと、油のにおいが鼻に来る。
 えづきそうになるのをこらえて、一歩足を踏み入れた。
 目の前には、絵を描いている永井先輩がいる。退部届けをぐっと握り締めて、私は必死に歩を進めた。
「永井部長」
 声をかけると、永井先輩は絵筆を置いて、こちらを見た。切れ長の視線が痛い。怖い。
「ご迷惑を、おかけしました」
 退部届けを、差し出す。永井先輩は、驚くほどあっさりと、退部届けを受け取った。
「そう。本当に、持ってくるなんてね」
 永井先輩がため息をついた。
「あなたにとって、絵は、その程度のものだったってことね」
 分かりました、と言って、永井先輩は、またキャンパスに向かった。
 外から、野球部の声が聞こえる。練習が始まったみたいだ。
「失礼しました」
 頭を下げてから、きびすを返す。
「あなたには、期待していたのに。残念だわ」
 すみません、とも何も言わずに、私は美術室をあとにした。
 
「お疲れ」
 美術室を出てドアを閉めると、香奈ちゃんがいた。いつものジャージ姿だ。
 香奈ちゃあん、と胸に飛び込む。
「雫、頑張ったねー。よしよし」
 香奈ちゃんが私の頭をなでた。私はまた、泣いてしまう。
 好きだったものを捨てる悲しさと、今好きなものに近付ける嬉しさと、入り混じった涙。
「歓迎するよ。野球部に」
 私はこれから、新しい道に飛び込むんだ。