個別記事閲覧 8-1 名前:vellfire日時: 2013/06/17 22:43 No. 34
      

 生きていたら、たくさんの体験をする。
 良い歌を聴いて感動したり、誰かの何気ないひと言に傷ついてしまったり、逆にささいなことに喜んだりする。
 何をするにもされるにも、感情が伴う。
 じゃあ、今の私のこの気持ちはなんだろう。
 不安だろうか、希望だろうか、コーヒーとミルクがぐるぐる混ざり合っているような気がした。
 きっと両方だろう。

 香奈ちゃんが「えいしょ!」と勢いよくドアを開けた。
 けれど最初の勢いはどこにいったのか何かに引っかかったようで、途中で止まってしまった。
「このドアは! あーもうまた砂かんじゃってるじゃん!」
 ドアが止まったところに視線を落として香奈ちゃんは言った。
 足で砂をかく。
 あらかた砂がなくなると、香奈ちゃんは横枠を背にしてドアをぐっと押した。
 おいでと手招かれて野球部の部室に入った。
 
「何回言ってもダメなんだよね」
 香奈ちゃんがため息をついて、椅子をどけた。雑誌が地面に落ちる。落ちた先には別の雑誌があった。
 どっちも表紙に、ユニフォームとバットを持った人が描かれている。
 部室の中はロッカーと、その向かい側に用具置きにでも使うのであろう2段の棚がある。
 棚側に沿わせて大きなテーブルがあって、周りには数脚の椅子があった。
「ちゃんと洗濯に出しなさいって言ってるのに」
 ロッカー側にいた香奈ちゃんが地面に落ちたユニフォームを拾い上げた。
 さっとユニフォームを払った香奈ちゃんはすぐさまその対象を顔の周りに変えた。
 ロッカーには同じようなユニフォームがいくつも無造作に入れられてる。
 テーブルの上には、グローブがゴムバンドで縛られてる。
 うん、誰がなんと言おうと、ここは汚い。そして、汗臭い。
 
「さあ、雫の初仕事だね」
「あ、もしかして、掃除?」
 ふいに、お母さんに片付けなさいとよく言われることを思い出した。
 私、掃除は苦手だ。
「そう思ったんだけど、やっぱりこっちで」
 香奈ちゃんは、にこっと笑うと、手にもったユニフォームをこちらに放り投げた。
 慌てて受け取る。
 ぐしゃぐしゃになったユニフォームを整えるようにすると、胸のあたりに、『緑川』の文字があった。