2-1 名前:vellfire日時: 2012/09/28 23:05 修正3回 No. 5 |
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高校2年生になってから、朝はムッとすることが多くなった。それにはいくつか理由がある。 窓を閉めて、部屋から出て、右手の階段に向かった。
階段をおりると、お母さんがキッチンであわただしくしていた。 我が家の階段はリビングと繋がっているから、例えば家から帰ったとき、いちいちリビングを通らないと自分の部屋には入れない。 以前、両親に「どうしてリビングに階段つけたの?」と聞いたら「そういうことだ」って言われてモヤモヤした。もちろん、継続中。 「おはよ」 声をかけたけれど、聞こえてないみたいだ。なるべく静かにキッチンの横を通って、洗面に入る。 今日もまた洗面争奪戦に負けてしまった、と思って肩を落とした。すでにお父さんが使っている。 「ちょっとどいてよ」 「おふぁよ」 振り向いてお父さんが言った。 「ちょっと。やめてよ」 歯を磨きながらしゃべったら飛んでくるでしょ、と文句を言ってやる。 「先に朝食にしなさい」 「朝起きたら、まず、うがいをしたいの!」 どうして、とお父さんが聞いてきたけれど、テレビでそうすると美容に効くと言ってたから、なんて答えてやらないのだ。 そこからしばらくどいて、待ってを繰り返した。お父さんの後って気分的に嫌だから、先を越されると沈んでしまう。 じゃあもっと早く起きればいいんだけど、これ以上は無理だ。だから言えたものではない、きっと。
仕方がないので洗面を出て、リビングに向かった。変わらず、お母さんが忙しそうにしている。 「うがいしたいからコップとって良い?」 食器棚のすぐ近くまで行ったところで、ようやくお母さんが私に気づいたみたいだった。 「ちょっとぼんやりしてないで、どいてどいて」 フライパンをもったまま私の方に向かってきたので慌ててどく。 お母さんは慣れた手つきでスクランブルエッグの半分をお皿に移した。 お皿運んどいてね、気が利かないんだから、と言ってキッチン台に向かうと今度はお弁当箱に盛り付けていく。 別にあとのこと言わなくていいじゃん、って思ったけれど、これも料理の手伝いをほとんどしない私が言えたものではない。 お母さんの邪魔にならないように食器棚からコップを取って、蛇口から水を注いでいると、階段の方から足音が聞こえた。
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2-2 名前:vellfire日時: 2012/09/29 23:07 No. 6 |
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「はよ」 口に手を当てながら、誠二(せいじ)が言った。こいつは、私の1つ下の弟だ。 長めの髪には外はねのパーマがかかっていて、部屋の明かりに照らされてほんのり茶色い。 誠二はけだるそうに頭をかきながら、私の横を通り過ぎて、冷蔵庫に手を掛けた。 私とは違って、背が高い。視線を逸らして食卓についた。 「そうだ。姉ちゃん」 軽く無視して、スクランブルエッグをごはんに乗せる。我が家はごはん派なのだ。 食べるのにちょっと時間が必要だしパンでいいのに、って思う。ちょっと重いと言うか硬いんじゃないだろうか。気分にも、胃にも。 「姉ちゃん姉ちゃん姉ちゃん姉ちゃん姉ちゃん姉ちゃん」 「うざい!」 ちょっとむせてしまったじゃないか。おまけに卵もひとかけら落としちゃったし。 「だって、返事しねえし」 椅子に座る私よりはるかに高い位置から見下ろすようにして誠二は言った。 「なんでアンタに丁寧に返事しなきゃならないのよ」 弟を見上げるなんて姉として情けない。 「ふーん。ま、いいや」 全く気にしない様子で、誠二は私の正面に腰かけた。 「で、何よ」 「朝から窓あけるのやめてくれ」 何言ってるんだろう、と思った。ごはんを口に運ぶ箸が止まった。口を中途半端にあけて間抜けに見えるかもしれない。 「姉ちゃん、聞いてるのかよ」 誠二は、私と同じようにごはんにスクランブルエッグをかけているけれど、その上にさらにしょうゆをかけた。 兄弟だなって思うけれど、やっぱり違う。 「姉ちゃんの部屋、確実に臭いって。 俺、部屋の窓あけてんだけど、姉ちゃんもあけるとにおいが回ってくるって言ってるだろ。 だから、あけないでくれよ」
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2-3 名前:vellfire日時: 2012/09/29 23:09 修正3回 No. 7 |
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朝からムッとする大きな理由が、これだ。最近の誠二は生意気で、いつも文句を言ってくる。 だいたい、女の子に向かって部屋が臭いなんてよく言えたもんだ。 誠二は、のどへかきこむようにごはんを食べている。 「アンタに言われる筋合いはありません」 そもそも私だって部屋のにおいには気づいているのだ。 私は油絵をやっている。早い話、油絵の道具は独特のにおいがするのだ。 「姉ちゃんの部屋の前通るとき息止めてんだぜ。最近何も描いてないんだろ? あれ何とかしてくれよ」 「雫はこれからコンクールがあるから、題材を考えてる最中なのよ」 いつの間にか家事を終えていたお母さんがフォローを入れてくれた。 けれど私は申し訳ない気持ちになってしまった。 私がお母さんに言ったことそのままだったから。そしてそれは、嘘だ。 残りのごはんを一気に口に運んで私は席を立って、洗面台に向かった。 ちょうどお父さんは身支度を終えたところらしかった。 「おまたせ」 そう言うお父さんには目も向けず、蛇口をひねって、手に溜めた水に顔をひたした。 部屋のにおいに違和感を覚えるようになったのはいつからだっただろう。 小学生から持ち歩いていたスケッチブックは、中学生になってキャンバスに変わった。 さすがにキャンバスを持ち歩くわけにはいかないからって、両親に泣いてねだったことを今も覚えている。 自分の部屋にキャンバスと油絵の道具があるなんて、誇らしい気持ちになった。 高校生の今、それをうとましく思ってしまっているなんて、言い出せない。
部屋に戻って、キャンバスには目もくれずに制服に着替えた。 鞄をもって階段をかけおりる。 はしたないわよ! と言うお母さんに、行ってきますとドア越しに叫んで、家を飛び出した。 最後に見た時計は7時過ぎ。 学校に行くにはまだまだ早いのだけれど、今の私にとっては何の問題もない。 私はいつも学校まで続く1本道の通学路を歩いて通う。 他のみんなは、大抵が自転車で通っていて、私も自転車で行けばいいのだけれど、それじゃ楽しみの一つが減る。 季節によって色んな姿を見せてくれるこの道は、朝の嫌な気持ちを消し去ってくれるのだ。 ゆっくり歩いていこうと思う。
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2-4 名前:vellfire日時: 2012/09/30 22:03 修正1回 No. 8 |
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春は、春告げ鳥と呼ばれるウグイスと、桜だ。 両側に植えられた桜が、ほのかな香りを届けてくれる。 どこからともなくウグイスの鳴き声がして、またこの季節が来たんだな、と実感する。 夏は、雨と日差しとセミの鳴き声が暑さを際立てる。 桜の花が散って、雨の時期はアジサイ。その後には緑がうっそうと茂ってくる。 朝からずっと聞こえるセミの鳴き声は、やっぱりこの季節が来たんだな、と思わさせられてしまうのだ。 秋になれば、食欲、ではなくって、辺りは一気に冬の準備へ。 赤トンボが舞って、コスモスが健気に咲く。イチョウに代表されるように赤や黄色がこの季節の色だ。 冬は白い。ゆらゆらと雪のダンスが行われて、景色は白いヴェールをその身にまとうのだ。 晩冬に、梅の香りがして来たら、春はもうすぐそこまで来ているんだ、と思って心が躍る。
高校生になって1年間この道を通って、私はこの道に夢中になった。 朝早く出て、誰もいない道を眺めてゆっくりに歩く。 それはもう、日課と言ってもいいぐらいだった。
この道を歩いた先には、私の通う渚東(なぎさひがし)高校がある。とりたてて特徴のない、普通の高校だ。 校門を抜けて、グラウンドを横目に玄関へ向かう。 グラウンドでは野球部が朝練を行っていて、朝から威勢の良すぎる声が響いていた。 朝から土と汗にまみれて、という光景を見ていると、男子ってすごいな、と思う。 ぞろぞろとバットを持つ人が出てきたのを見て、私は足を速めた。
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2-5 名前:vellfire日時: 2012/09/30 22:06 修正2回 No. 9 |
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下駄箱で上履きに履き替えて、その足で職員室に向かった。ドアを開けて、失礼します、と軽く会釈する。 「おはよう、横井さん。今朝も美術室の鍵かい?」 職員室に入ると、おっとりした雰囲気の先生に声をかけられた。 美術部顧問の矢沢先生だ。薄くなったてっぺんとま白い横の髪。大きな鼻もあいまって、あだなは『お茶の水博士』だ。 「おはようございます、矢沢先生。はい、お願いします」 「次のコンクールに向けて頑張っているようだね」 「あ、いや、私なんて、そんな」 矢沢先生は、うんうん感心だなあ、と言って、鍵掛けの美術室と札があるところに手を持っていった。 「はい、また授業が始まる前には届けてね」 鍵を渡してもらって、ありがとうございます、と言って、駆け足で職員室を出た。 私のついた嘘は身近な人に広まって、私自身を突き刺してくる。 それでも、そうする理由はあるんだ、と自分に言い聞かせている。
油絵をやっている私は、当然、美術部に所属している。 階段を一番上まで登って、美術室へ向かった。4階程度で足はガクガクだ。 美術室に入ると、そこは分厚いカーテンが閉められていて、薄暗い。 油絵の油のにおいが染み付いているのか、ツンと鼻を突かれる。 食用油とは違う、独特のにおい。 普通の人なら、うっと来るかもしれないけれど、私はこのにおいが好きだった。すでに過去形だ。 カーテンを開けると、室内がぱあっと明るくなった。急に明るくなったから、少し目がくらむ。 窓を開けると、潮の香りを含んだ風がすさんだ。大きく深呼吸する。やっぱり、春の風は心地が良い。
窓の下からは、さっき横切ったグラウンドがちょうどよく見える。 ここで、野球部の練習風景を眺めるのだ。 野球部はいつもこの時間から、部員が自由に打つ練習を始める。私を一番癒やしてくれるのはこれなのだ。
だから、ごめんなさい。矢沢先生。本当は美術部も、絵もやめたいんです。 なんて絶対言えるわけないじゃん、と思いながら、椅子を窓際によせて、外を見下ろした。
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2-6 名前:vellfire日時: 2012/09/30 22:10 No. 10 |
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野球部の部員の中でも大柄な人が、準備を終えて、ゲージの中に入っていった。 思わず、手を顔に当てる。手の平に顔の暖かさが伝わってくる。 あの人の番だ! 今から打つ人は、緑川勇気(みどりかわゆうき)。 渚東高校野球部3年生で、野球部のキャプテンをしていて、大きな体と爽やかな笑顔がキュートな先輩だ。 話したことはない。 野球部で飛び抜けて人気で、誰でも知っているほどの有名人で、噂では、ファンクラブまであるらしい。 内気な私は、先輩の目の届く所はおろか、ファンクラブにさえ入る勇気はない。そもそも、私なんかが、と思うわけで。 だから、ここから見ているだけでいい。
先輩はキャッチャーと言うポジションをやっているらしい。 普段は、お面をして、ピッチャーと言う人のボールを受けていて、顔が見えない。 この練習が始まるときが、1番のチャンスなのだ。 野球部の練習は、朝練と午後があって、つまり2回見られる機会がある。 でも、午後だと美術室には他の部員がいるし、みんな帰った後だと、都合よく先輩を見られるとは限らないのが辛い。 やっぱり、朝のこの時間が、私にとって格別に幸せなひとときなのだ。 そうやって眺めているうちに、始業5分前のチャイムが鳴った。 野球部は早々と朝の練習を終えていた。慌てて窓を閉め、カーテンを閉じた。 美術室の鍵をしめて、そっと思う。
――また放課後、見られますように。
高校2年。 私は、きっと、恋をしている。
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